銃撃のさなか、救助者たち 後編
エリカ・シモンDO. MHA、スコッティ・ボレターBS EMT-P、エリオット・M・ロス MD MPH、チェタン・U・カーロッドMD MPH 著
JEMS 2018/4 掲載
ラスベガス銃乱射事件、救急医療サービスにとっての暗い一日
「トリアージと搬送」
乱射が終わった後、非常時対応の指令系統(ICS)が実行に移され、クラーク郡消防署副署長であるジョン・クラッセンとロジャーズが、ジャイルズ・ストリート沿いリノ・アベニューのすぐ南に、東側救急部門を設置した。
コンサート会場では観客が、負傷者の援助に驚くほど意欲的だった。ウーバー社の車、パトカー、軽トラックや乗用車が急場の救急車代わりになり、圧倒的な数の被害者を13カ所の病院に運んだ。
トリアージと救急車の配備を複雑にしたのは、周辺の多数のホテルから「狙撃者がいる」との報告が舞い込んだことだった。フェスティバルで撃たれた被害者のうち何人かがそれらのホテルにたどり着き、「撃たれた」と言ったためだ。
これらのホテルの保安係は、フェスティバル会場の銃撃者のことをまだ知らされていなかったので、それぞれの場所に発砲者がいると通報したのだった。これらの場所の発砲者の情報を整理するのに、多少の時間がかかった。
発砲者の存在を知らせる情報が複数入ったため、ラスベガスメトロ警察とネバダ高速道路警備隊は、周辺の道路および全ホテルの裏に隣接し、他州に通じる高速道路15号線を閉鎖した。
救急車、消防車、警察関係の車輌のみが、市街地の南北を縦断するこれら主要道路の使用を許可された。
高速道路が空になり、市のレベルI外傷センターである大学病院医療センターへの救急車の通行が、容易になった。
CA社(コミュニティ アンビュランス社)は3つの拠点に救急車を派遣した。
他の郡でCA社と同じように救急医療サービスを提供するアメリカン・メディカル・レスポンス社(以下「AMR社」)も、乗員の揃った救急車から現場に送った。AMR社の利用可能な他の救急車を出動させるため、リチャードソン(CA社)はAMR社にCA社の人員を送った。
医療テントから避難できるようになるとすぐに、最寄りの道路であるジャイルズ・ストリート脇のエリアが、トリアージのレッドゾーンになった。イエローゾーンは通りの向こうに設置された。
緑のトリアージタグの受傷者(歩くことのできる受傷者とバイスタンダー=その場にいた者)は全員、会場の外の安全な場所に向かって移動するように指示された。厳格な犯罪現場管理のプロトコールに従うことは、現実的ではなかった。かなり重症の人もいたので、重傷者や死亡者の移動ができるようになるまで、家族や親しい者がいっしょに留まることが許された。
CA社やその他の救助機関は周囲で発砲が続いたため、この事件ではトリアージタグを使用しなかった。
しかし死亡者の存在を示すために、放置されていたカウボーイハットを見つけて死者の顔にかぶせた。
「危険がどこから来ているのかわからない時、人は必要にかられて動き続ける」とシンプソンは言う。 「我々は桶の中の魚みたいだった。もし我々がコンサートの観客を避難させるために広い場所に集合地点を設けていたら、第二の虐殺場となっていたかもしれない。」
銃撃の被害者の約50%に当たる264人が救急車で地域の病院13カ所に運ばれ、残りは他の車両やバイスタンダーが収容して搬送した。
午後11時には重傷者全員が病院へ搬送され、まだ使える救急車がたくさんあった。
警察も真夜中には、現場を警戒区域に格下げした。最初の発砲から2時間も経っていなかった。最終的にはずっと後に、残りの関係者と一般市民の全てがバスで会場から避難した。
会場近くにあるレベルII外傷センターであるサンライズ・ホスピタルは、最も多くの負傷者の治療を行った。その199人の患者のうちの150人が、40分間に到着した。現場近くのレベルI外傷センターである大学病院の医療センターは、104人の負傷者を治療した。
銃撃の被害者があまりに多かったので、救急治療室が必然的に手術室になった。廊下には担架が並び、いつもはピカピカの病院の床が血の海だった。
「これからのために」
この記事を執筆している時点で、公式な事後報告はまだ出ていない。この事件は非常に特殊で、複雑だった。しかしうまく行ったこともたくさんあり、多くの人の報告・提案がこれから出てくるだろう。
【指令系統】
大量死傷者が出る事件では、イベント会場の医療責任者が、危機対応の初期の指揮をするべきだ。この人物が既に、地域の公衆安全当局の幹部と協力関係にあることが望ましい。
CA社のCOOかつオーナーであるブライアン・ロジャーズは事件の知らせを受け、自分の友人で仕事仲間のクラーク郡消防署副署長ジョン・クラッセンに連絡を取った後、指揮者の任についた。
【コミュニケーション】
隊のメンバー全員が、追加物資や増援の要請ができるように、一人一人無線機を携帯するべきだ。
【群集やバイスタンダーの関与と手当て】
事件ではバイスタンダーが意欲的かつ勇敢なファーストレスポンダーになった。将来的には、止血キットの備えがその場にあり、配布されるべきだ。あらゆる大規模なイベントの始めに主催者が止血キットのある場所を含めて簡単な応急処置に関する広報を行うことを、奨励すべきだ。
【メディア対応】
地元や全国レベルの報道メディアがすぐに現場にやってきて、レスポンダー、犠牲者、イベント主催者のインタビューをする。ロジャーズとシンプソンがCA社のメディア担当となった。二人はすぐに同社と契約がある広報チーム、10e Media社に連絡して援助を求め、メディアからの多数の質問をさばき、回答やインタビューをスムースに行うことができた。救急対応機関は連絡先について、事前に計画を立てておくべきだ。
【捜索チーム】
銃撃が終わって犠牲者がトリアージされ会場から搬出された後で、近くの駐車場にあった車の中や下で、瀕死の重傷者が数人見つかった。この人達は自分で走って逃げたか、コンサートの観客によって運ばれたようだ。2ブロック離れたところでも怪我人や死者が見つかった。これは、将来同様の事件が起こった時、救急隊員を含む捜索チームが必要であることを強く示している。
【心理的サポート】
CA社は重大事件に対応するために、ラスベガス地区で救急対応機関に特化している心理学者のナディーン・レオーネに直後の支援を要請した。レオーネは事件のあと数週間、CA社でオフィスアワーを設けた。社員のほぼ全員が、その期間に相談に行った。
この悲劇的で情緒的に割り切ることが難しい出来事に巻き込まれたレスポンダー全員に対して、現在も継続的な心理的サポートが提供されている。最も強力なサポート策の1つは、仲間同士で交流し、話し合いができることだ。他の人も同じ恐ろしい事件を経験したことを知り、事件で起こったいろいろなことを話し合うことで、お互いを慰めることができる。
「期待をはるかに超え」
その晩、少なくとも851人が負傷し、460人が銃撃の被害者となり、500以上の銃創が手当てされた。発砲者を除き、36人の女性と22人の男性、合計58人が命を失った。
犠牲者の最年長は67歳で、最も若い犠牲者は20歳だった。
クラーク郡の検屍局は、58人の犠牲者全員が銃創の結果死亡したと判断した。
ラスベガス地区の救急対応機関とその人員は迅速に集結し、一致協力して事に当たった。
CA社の22台をはじめ、100台以上の救急車が現場に到着した。
クラーク郡消防署、ラスベガス消防署、ヘンダーソン消防署、
AMR社 、メディック・ウェスト社も救急車と人員を送った。
CA社の社員と幹部は、その夜、驚くべき英雄的行ないを見せた。
「その夜現場で勤務した社員は16名で、それには休みを返上し駆けつけた5名も入っている。こんなことは滅多に起こる話じゃない。」とバイルドが意見を述べる。 「彼らは期待をはるかに超え、他の人たち皆の模範となった。」
「彼らは武装してない医療員で、ポロシャツやズボン姿だった。それが激しい銃撃の中で、受傷者を置き去りにしたくない一心からその場に留まったんだ。」とリチャードソンが認める。 「凄いどころじゃない。彼らの勇気と優しさは、誰にも負けない。」
終わり